ちょうさん


ちょうど三年前の今頃。一ノ坂川に蛍が飛び交う季節に惜しまれつつも閉店した、自宅から最寄りにして最上の聖地、焼き鳥ちょうさん。
それから一年を経たずに熱心なファンからの期待に応えるべく、旧ちょうさんから川沿いを少し下った場所に返り咲いた店が居酒屋ちょうさんだ。
ほどなくして世間はコロナ禍に突入。元々ご年配の方々が集まる店であったこともあり、ここ一年以上顔を出していなかった。

先日店の前を通りがかった際に、玄関に貼られた貼り紙に目を疑った。
「ちょうさん閉店まであと5日」
これは行かねばと、昨晩時間制限ありで行ってきた。
七十三になったちょうさんもお母さんもご健在で一安心。二十年間ちょうさんを支えたお母さんにヤマアジサイをプレゼントしたら、大層喜んでもらえた。

ほどなくしてちょうさんから「いまから車椅子の奥さんとそのご主人が来られるから、席を寄ってくれ」と頼まれた。
快く席を空け、彼らの入店を待った。ちょうさんからの事前情報で、彼女は40代の時に脳梗塞で倒れ、右半身の麻痺と言葉に障害が残ったそうだ。それから長く塞ぎ込んでいたらしく、外食もままならなかったらしい。60代になって75歳のご主人が月に一度だけ飲みに行くのに付いて出掛けるようになり、表情が明るく一変したんだとか。その月に一度の店が、この居酒屋ちょうさんなのだ。

車椅子の彼女が狭い入り口から入店してきた時、脳裏に微かな記憶がよぎった。微か過ぎて定かでは無いが「この人知ってるかもしれない」的なやつ。
彼女はちょうさんのセルフ焼肉が好物らしく、にこにこしながら左手で肉を焼いては、十四も歳の離れた健常な亭主に「やけたよ、やけたよ」と食べさせていた。そのなんとも微笑ましい光景をアテに焼酎をあおりながら、ほんといい店だよなぁと。
途中、コンロの火が消えてしまい、忙しいちょうさんに変わって火をつけてあげた際、ぼくの右手の甲の悪戯書(刺青)を見てご主人が話掛けてきた。
「おれはずっと不動産屋でね。若い時廣島に居た時、そっちの筋のひとには随分お世話になったんだよ。お兄さんもその筋なの?」
いえいえ、ガキの頃の根性試しみたいなもんで、ただの悪戯書きですよと説明していると、すかさずちょうさんの横槍が入った。
「岩光さんはね、昔はそうだったかもしれないけどね、今は大工さんで活躍しておられるんです。大殿(この地域)生まれの大殿育ちでね、今も大殿に住われて」
するとご主人が
「へー!そうなんだ。この家内も昔は小学教師やっててね、大殿には11年も赴任してたんだよ」

その瞬間、記憶の断片が合致して全身に鳥肌が立った。
ぼく先生の教え子です!
一同目を見開いて騒然。彼女の方も記憶が甦ったみたいで「いわみつくん、わかる!」と喜んでおられた。「りっぱになったね、せんせいうれしい」と昔話に花が咲いた。

まさか最後のちょうさんで、こんなに運命的な再会があるなんてと、当事者のぼくたちより周りの客が感動。ちょうさんの奥さんはしまいには泣き出す始末。

こういうことがあるから居酒屋っていいんだよな。その一席、どの乾杯にもドラマがあるんだ。


国も県も市も、飲みに行かないでください、酒の提供しないでくださいって、なんの補償も無く無責任に垂れ流すばかりで、飲みに行くことが悪のような風潮になった御時世。自分もその風潮に合わせ、めっきり出なくなってしまった。
でも、だったら、飲食店の方たちはどうやって生きていけばいいんだろう。商売道具を奪われて、仕事を奪われ、工夫しようにもいろいろと限界がある。現にこうしてちょうさんも閉めざるを得なくなってしまった。
ぼくの愛するお店たちも、悲鳴を堪えながらもう一年も生殺し状態。
この素晴らしい居酒屋文化を絶対になくしてはならない。

山口市は新規事業者に補助金バンバン出しまくって、どこの馬の骨かも判らない、何年続くかも危うい業態の店がどんどん出来ているが、このコロナ禍を耐えぬいている、既存の「良い店」を守る事にも注力すべきだ。
ぼくが市長なら絶対にそうする。
絶対に市長にはなれないけど。

一体この先どんなことになんのか、誰にもわからない。

とにかくやることやって、とにかく前向いて、とにかくみんな健康でいよう。

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