もつ乃の余韻に浸りながらバスは海老名駅に到着。相模線で茅ヶ崎まで、東海道線で目的地大磯に着いた。今回のご縁を取り次いでくださったひろきさんとここで合流。夏の盛りの湘南の空気感を感じながら中村好文さんの講演会場へと向かった。

会場の建物である旧大磯郵便局を改装したコワーキングスペースに到着。代表の原さんにご挨拶して中へ入ると中村好文さんが居られた。いままで20年間、本や雑誌などで見てきた通りの、そして思っていた通りの雰囲気や空気感を醸し出す方だった。

随分前の話だが、坂本龍一さんとお会いしたことがある。■ - wcc works blog (hatenadiary.org)とてつもないオーラを放っているのかと思いきやその全く逆で、その立ち姿、話す声、握った手も全てが柔らかい印象を受けた。憧れ続けた中村さんを目の前にして、その時のことを思い出した。

講演が始まる前だが中村さんも、周りの参加者も既に片手にビールを持っていた。講演チケットにはワンドリンクとおつまみ、ホットドッグの交換チケットが付いていて、ぼくらも早速いただくことにした。参加者は40名ほどで、中村さんとの距離感も手を伸ばせば届くほど。その場にいるだけでも嬉しかった。

講演のお題は「さあ、なにからはじめよう?」というタイトルで、彼が10数年前から始めた、なるべくエネルギーを自給したり、周囲環境に負荷を掛けないようなオフグリッドな小屋を作ってきた経緯、そこでの過ごし方のおはなしだった。彼の書籍はほとんど読みつくしていたので、うんうんと頷きながら音楽を聴いているような感覚でお話を聞いていた。中村さんの設計事務所レミングハウスでの日常のおはなしも2杯目のワインをいただきながら心地よく聞いていた。

講演の後は好文さんとの懇親会。すぐにファンたちに囲まれて、奥手なぼくは遠目に眺めているばかりだったが、それを見た原さんが「山口からきた大工さんで、、」と紹介してくださった。20年前に「住む。」で好文さんを知って独立するきっかけとなったこと。以来、好文さんの影響を受け続けて普段着の様な家を作り続けていることを伝えることができた。ほろ酔いの好文さんはくしゃくしゃな笑顔で「えー!そう!」と言ってくださった。周りの皆さんは写真撮影をしていたけど、ぼくはお話し出来ただけでもう充分だった。彼の著書「普通の住宅、普通の別荘」は初版時速攻でで購入し以来バイブルとしているんだが、好文さんがその本にサインをくださった。

宝物です。

ひろきさんは自邸の設計依頼にトライされていた。ぼくは遠目にエールを送っていたんだが、好文さんは話半分くらいで聞かれていた様子だった。でもきっと好文さんの心に引っかかってはいるはず!もしそんなことが叶ったならば、施工は僕にやらせてください!浜田に住み込みでやります!と言ったらひろきさんは「もちろん、そのつもりですよ。」といってくださった。

念ずれば花開くというのは本当だと思っている。そんなことがいつ起きてもいいように、技も心も磨いておこう。

 

続く

第二章

仕事柄、全国津々浦々いろんなところに行く機会があるが、やっぱり一番のお楽しみはその土地土地の食。鎌倉地方と言えば生シラス丼はマスト。ただその他を知らない。事前にSNSでお勧めを訪ねてみるといろいろな情報が集まってきた。便利な時代になったものだ。一泊二日の道中なのでかなり絞り込まねばならなかったんだが、中でも僕の興味を一気に引き付けたのは、鹿児島の長次郎どんから送られてきた一本のyoutube動画だった。

「ワンオペで人件費分を客に超還元。スーパー女将の特大もつ煮込み野郎飯が凄い」

というタイトルで、再生数は300万回を超えていた。再生が終わり、長次郎どんが推してきた理由に頷いた。ここは行っとかなくては。

今までいろんなお店の開業に関わらせていただいてきた。美容院はたくさん作ってきたし、現時点で3、4件のお話をいただいている。他にラーメン屋さん、焼き鳥屋さん、コーヒー屋さんにベトナム料理店。どんなお店を作るときでも一番大切にしていることが「ひと、もの、はこ」この三つのバランスだ。商売やるのに人は良くて当たり前だが、その人柄や個性はその店の大きな魅力になる。ものとは売るもの、技術やサービスももちろん含まれる。これも良くて当たり前だが、良すぎりゃいいってもんでもない。箱も極めて重用だ。立地は商業圏、文化圏なんかも大事だし、内外装も本当に大事。これもお金かけりゃ良いってもんじゃなくて、あくまで三位一体のバランスが重要なのだ。そういうバランスの取れた店には「いい客」が付く。それをもって本当にいい店ってのが成り立つものだと考えている。

この動画に登場するもつ乃さんは開店一年と余りにも関わらず、人とモノと箱のバランスが完璧で、そこに集まる良い客によって完成されている。一日100食超の定食が昼過ぎには完売、しかも仕込みから接客、後片付けから雑務に至るまでたったひとりでこなす女将さんのシステムと気概をこの目で確かめたいと思った。このお店に行くために急遽新幹線をキャンセルして飛行機のチケットを取り直した。

出発の3日前、忙しくないであろう時間帯を見計らってもつ乃さんに電話、当日の状況を聞いてみた。とても丁寧な応対だったが、数日前に日テレの番組で取り上げられたらしく、恐らくとても忙しくなるだろうとのことだった。始発の飛行機で山口から向かうことを告げると、「まぁ!そんなに遠くから!?お気をつけてお越しくださいね、ただ売り切れちゃってたらごめんなさい!」要するに、どんだけ遠くから来ようが特別扱いはできないという意味だ。当たり前だ。その為に飛行機のチケットを取り直したのだから。

出発当日、山口は明け方から大雨だった。フライトは7時40分。結構ぎりぎりで空港に到着。出発ゲート前で待っていると、大雨の為に離陸が遅れるアナウンスが流れた。この時点で暗雲が立ち込めていたが、まだ焦ってはいなかった。本来なら羽田着が9:20、すぐに空港線で横浜、ドンピシャで相鉄線で海老名まで、バスに乗り換えて11時台にはもつ乃に到着できる予定だった。結局飛行機は30分遅れで離陸、機内では携帯で最短乗り継ぎルートを検索することができず、だんだんと焦り始めた。

羽田に降りるや否や競歩の歩みで進む。時に小走りで、階段は一段ぬかしで進む。空港線は運よく快速に飛び乗れた。だが相鉄線でホームを間違える痛恨のミス、海老名行きの急行を一本逃してしまう。海老名に着いた時点で本来の到着時間を超えていた。もしかしたらもうだめかもしれない。でも行くしかない。バスはさっき出たばっかりで、ここでも20分待つことになった。

最寄りのバス亭に着いたのは12時20分。半べそ駆け足でお店に向かった。遠くからでも店の外に並ぶ列が見えた。この日の関東は猛暑だったが、そんなことは関係ない。他の客より1秒でも前へ。そしてもつ乃に到着した時の写真がこれだ。

おわかりいただけただろうか。

わたしの1組前の夫婦でこの日の全てのもつ煮込み定食は売りきれた。

こんなことってあるのか。。

あと五分早ければ。。。

悲しさや悔しさを超えた、ただただ空虚な感情でしばらく立ち尽くした。

最後の盛り付けをしたのを見計らって、女将さんにお土産を渡した。

「あ!お電話下さった山口の!」

「大雨で飛行機が遅れてしまって…残念です(半泣)」

「本当にごめんなさい!もしまたこちらに来られることがあったらまたいらしてください!」

もしかしたらもう一食分。。という淡い期待が1ミリも無かったかというと噓になるが、その期待も無残に散る。その間にも次々にお客がやってくる。女将さんはその一人一人に丁寧にお断りをしていた。

奇しくも帰りのバス亭はもつ乃の前の道を挟んだ向かい側だった。時刻表を見ると次のバスまで50分。マジか。しかも空からは無情の雨が落ちてきた。もつ乃からは、満足そうな顔をしたお客が次々と出てくる。その間もまだ新しい客がやって来ては、残念そうに、または不満そうに帰っていく。

あと数名店内に残っているくらいの時に、女将さんが暖簾やのぼりを仕舞いに出てこられた。道を挟んで軽く会釈をすると「バス何分ですかー!?」と大きな声で尋ねてきた。

「まだ当分来ないみたいですー!」と答えると、女将さんが手招きしてこっちへ呼んでいる。え!?。。何々??ダッシュで信号を渡る。

「鍋の底を集めたのでよろしかったら一食分出せますのでどうぞ中へ!」

わたしはこの数分間で一年分の絶望と感動を一気に味わった。

動画で見た、あのもつ煮込み定食だ。醤油味のもつ煮込みには新鮮なネギがどっさり。この日のお味噌汁は赤だし。女将さんが毎日数種類漬ける浅漬けと、卵焼きは紅生姜入り。渾身のいただきますを言って、割り箸を割った。

もつはとにかく一切れが大きい。だけど簡単に嚙み切れるほど柔らかく、飲み込むのも容易だ。臭みも全くなく、思ったよりあっさりしていてとにかくご飯が進む。ガツガツ食べ進めたいのは山々だが、食べられたことへの多幸感の方が勝って一口づつ噛みしめながらいただいた。

店内には誰も居らず、女将さんと少しお話することもできた。次は必ず、味噌味とカレー味を食べに来ます!と約束してお店を後にした。

ひとの優しさに触れて、ひとを幸せにする仕事を自分も頑張ろうと思った。海老名に戻るバスは大渋滞でちっとも進まず。周りの乗客はずいぶんイライラしている様子だったが自分は弾むような気持ちでいた。それから二時間もすればあの中村好文さんにあえるのだから。

続く

7/9~10 第一章

6月初旬に浜田で植物説法をした晩の酒席でのことだった。いつもの三浦兄弟とめぐみ夫人、河野さんに加え、初めましての木工家、沖原さんと浜田で数少ない名店「磯」に集まった。僕の外見と中身のギャップに困惑した沖原さんの「岩光さんはなんでいまの岩光さんになったのか」という素朴な疑問に応えるべく、自分の生い立ちからの半生を話していた。その中で自分の転機ともいえるのが23歳の頃、大工になって3年目で、勤めていた工務店が伝統工法から新建材ベースの住宅へと転換し、燻っていた頃のことだ。

三年目の大工というのは、十年で一人前と言われる大工業界ではまだ修行の身。ただ、同じ年ごろの人達が一番遊んでいた年頃に、そんなことには目もくれず修行に打ち込んできた自負はあった。日当八千円の安月給で妻と長女を養わなければならなかったので当然と言えば当然だったが。

大工仕事は天職を得たと思っていたので、三年間で一通りの仕事はできるようになっていた。今思えば、兄弟子や棟梁からは生意気に映っていただろう。この頃には新築でも改修工事でもひとりでこなせるほどにはなっていた。しかし、このまま新建材ベースの格安ハウスメーカーのような仕事をいくらやり続けたところで修行にはならない。なにより「この材料を切るときは必ず窓を開け、防塵マスクとメガネを着用して作業を行ってください!」こんな注意書きが赤で大大と書かれた建材を使って家を建てることに心底嫌気がさしていた。世の中の需要は見た目が良く機能的で高気密高断熱みたいなのが主流なのかもしれないが、体や目に触れる部分はなるべく自然のもので、「普通の家」が作りたかった。ただ、こんな田舎の山口では昔気質の工務店かHMかの二択くらいしかなく、悶々とした日々が続いた。

ある日実家で過ごしているときに一冊の雑誌を手にした。住む。という雑誌だ。その号はその後もたくさんの御縁を繋ぐものとなった。いまでも手元に残っているが、2003年に発行されたものだ。ちょうど二十年前のことだった。

その号の中で中村好文という建築家の実例と文章が掲載されていた。「雷に打たれたような」ではなく、沸々と、とても静かな衝動が沸き起こったのを今もよく覚えている。巻末には「簡素で身の丈に合った、普通の家がいい」とあった。この時既に、欲しいものを手にした気分だった。住まい手と作り手が住まいの本質を見極め、簡素な豊かさをともに作っていく。これこそが自分のやりたい仕事だと確信した。父にこの雑誌を何冊か貸してほしいと聞くと、「おー、もう全部読んでるし、みんな持ってっていいぞ」と言ってくれた。父の表情は心なしか、やっと気づいたかみたいな、目を細めるような顔をしていた気がする。その翌年の元旦、wccworksを立ち上げた。二十四歳の時だった。

最初の頃は当然随分と苦労した。この時には次女も産まれていたので、先輩大工や上棟の応援で日銭を稼ぎながら、名前を知ってもらうようなチラシを作ってみたり、とにかく何でもやった。駅通りのセレクトショップBRAT'S STOREの店舗改装の仕事は初めてデザインから施工までの全てを担当した案件で、何の実績もない自分を選んでくれたオーナーには本当に感謝している。その後、陶の家具店LOOLのはじまりの窓を施工、その窓を見た人の家、はじまりの家の設計施工をすることになる。

はじまりの家を設計するにあたり、自分の仕事の手本としてきたのが中村好文さんの住宅だ。彼の作例やそこに添えられた文章は何度も何度も読み返してきた。それ以降十数軒建ててきた住宅、改修事例、店舗に至るまで、自分の仕事には彼の影響が濃い。

前置きが大変長くなったが、磯では環日本海という日本酒を酌み交わしながらこんな話をしていた訳だ。すると三浦家の兄、ひろきさんが「来月大磯の知人が中村さんの講演会をするんですよ、ぼくも行こうと思ってるんだけど良かったら一緒に行きます?」と言い出した。酒が進んでいたのもあって、なんだかよくわからないけどまず大磯ってどこ?あー、あの大磯砂の!うちの住宅の玄関土間の洗い出しは全部大磯の三分砂をつかってるんですよー。鎌倉の下の方?で、そこで中村さんの講演会?そのあとはビール飲みながら懇親会?? え、、行きたい。。僕にとっては憧れ続けた人なので、それはもう何を犠牲にしてでも行かなくてはということで、この旅の記録をここに綴っておこうと思う。                       第一章 おわり

 

夏至 2023

夏至を過ぎ思うことがあって久しぶりにブログを書こうと開いたら、前回の更新が去年の冬至だったのには笑ってしまった。

 

昨日夏至を迎え、この日を境にまた短くなっていく日の長さを憂いていると、インスタグラムの投稿でこんな表現をしている人がいた。

「日が短くなることはなんとも悲しくもあるが、夜がまた長くなるとそれはそれで良いことだ」

そうか、そんな素敵な考え方があったか!と思わず唸ってしまった。

ヤマアジサイはガクが落ち、花の終わりを告げている。ちょっと前に小指の先ほどしかなかったカマキリも随分大きくなった。ちなみに二十四節気では六月六日辺りを蟷螂生ず(カマキリショウズ)という。

ホタルススキは青々と。昨年近所の道端から拝借した野紺菊は種が落ち、同じ場所にまた生えてきた。合歓の花も一斉に咲き始めた。

日々忙しくさせてもらっているが、自然はちゃんと時間の流れを教えてくれる。

日々の小さい感動を忘れてしまっては、人生とても損をしてしまう。

大していいことなくても、小さないいことが10個集まれば結構満足できるものだ。

 

冬至

海や山、毎日通る路、自宅の庭先でも普段から自然の変化に触れて生きていると旧暦のほうが自分にはしっくりくる。

昨日は二十四節気冬至だった。二十四節ッカー(旧暦を意識して生きる民)の我々からすると冬至には特別な思いがある。

簡単に言うと太陽の周りを自転しながら廻る軌道上で地軸の傾きから一年で最も太陽から離れる日が冬至で、その反対が夏至となる。

新暦の正月が明け、立春辺りからぐんぐんと一日の日照時間が長くなり、新緑が勢いよく芽吹き始める。立夏、今でいう五月の頃には一日に二、三分も日は長くなり、夏至の前後には十九時でもまだ明るいほどだ。

ということは、まだ夏本番を迎える前の六月二十一日を境にどんどん日が短くなっていくということだ。だから二十四節ッカーたちは皆、夏至の日の何とも形容しがたいエモーショナルな感情を抱いているのだ。

即ち、冬至とはその日を境に日が長くなり始める節目の日ということだ。なんと喜ばしいことでしょう。もちろん全ての季節にそれぞれの役目があり、一日一日が尊いものなのだけど。日の当たる時間が長くなるということはとにかく嬉しいことだ。

 

建築的にも日照を上手に取り込むことはとても重要だ。

冬至の太陽の軌道は一年で最も低く、入射角度は31度。うちの設計する住宅は必ず緩勾配の屋根で軒を深めに出しているが、冬の低く柔らかい陽光は軒をかいくぐって部屋の奥まで光を届ける。うちの家は南側の端から北側の端まで7.5間、約14ⅿ離れているが、この時期は北の部屋まで光が到達している。太陽の光は物質にあたって輻射熱を放出する。動物たちも陽だまりが暖かいのをよく知っている。

対して夏至の入射角は78度。真上から突き刺すような強い熱線は深い軒に遮られ、家の中には入ってこない。これが太陽の軌道、入射角を計算した先人の知恵による設計だ。

最近の建材の機能性、利便性の発展は目覚ましく、次々と新しい商品が開発されている。やれ「断熱性能20%向上(当社比)」とか「気密性30%向上によりエコ減税取得」なんて謳い文句をよく目にするが、そんなんものは洗濯洗剤などと一緒で、毎年毎年洗浄性能が上がったとコマーシャルしているけどじゃあ10年前のはなんだったんか?と突っ込みたくなる。洗濯物は10年前も今も「白さ」はさほど変わらないだろう。

高いお金を出して普通の倍の厚みのガラス窓を付けたって、断熱効果は倍にならないし、普通のとそんなに変わらない。太陽光が部屋に入れば輻射熱が放出されるから軒のない家の大きな窓なんてもう大変。大きな窓の素晴らしい景観も、結局簾でも掛けなければ暑くてやってらんないんだから。

高断熱高気密なんてのもどうなんでしょうね。いくら気密にしたってお天気のいい日は窓全開にしたいし、今日みたいにめちゃくちゃ寒い日だって一日に何度かは換気して家の中の空気を入れ替えたいと思うんだが。

建材の機能数値に頼った設計ではなく、新しい技術も取り入れながら自然の力を応用した住宅が望ましいと僕は思います。

これからも緩く深い屋根をつくりつづけます。現在誠意設計中の新築案件は来年上棟予定。年が明けたら久しぶりに新弟子が入ってきます。wccworks初の女性大工の誕生だ!

七年前、plainを開店して間もない頃に近所に住まわれるおばあさんが訪ねてこられた。五十年前、新婚時代から育てているモンステラを植え替えに来てほしいという依頼だった。

ご主人は随分前に亡くなり、子供さん方もみな都市部に住んでいる為、記憶にあるだけでも十年以上植え替えていない巨大なモンステラだった。

根が詰まりあげて、気根は部屋中に蔓延っていて、葉は黄変し弱々しいモンステラを眺めているのがとても辛かったけど、誰に頼んでよいのかも判らず。ダメ元でうちに来られたそうだ。

あまりに大き過ぎてとても一人でできる代物でない為、後日大工の若いのを連れて行くことにした。

すると、施工予定日の前におばあさんから興奮気味に電話があり、モンステラの幹から新芽が出てきたというのだ。きっと、あなたが助けてくれると思って、ちゃんと応えてるのよ と。

植物は人間と関われることを最初に実感した出来事だった。

 

あれから七年、年に2回ほど植物の管理に伺うようになった。おばあさんは八十五歳、ぼくは四十歳になった。

今回は同じく五十年前から育てている八重咲のハイビスカスと、台所の上に飾ってあるライムポトスの植え替えに。

毎度思うのが、築五十年とは思えない室内の設え。細かいところまでよく配慮された、でも決して気取らない感じがとても心地よい。冷蔵庫や洗濯機、掃除機などの家電は当時のMieleで統一されているのもすごい。

どこの建築家に頼まれたのか聞くと、建築家ではなく建てたのは地場の工務店で、おばあさんがあれこれ細かく指定して、それはもう大変だったとか。

それでもこの設えの完成度は設計者と大工がおばあさんの意図をちゃんと理解して造った証拠だと思う。素晴らしい建築。

 

おばあさんは台所の上にはライムポトスという強いこだわりがあって、水遣りの管理が高所で大変だから、ここに置くのはやめなさいと言っても一向に聞く耳を持たない。

ただでさえ脚が悪いのに、毎回椅子に上がって重たいジョウロで水をあげている姿は想像するだけで危なっかしい。

とうとうこちらが折れて、月に二回植物や家の雑事の管理をしに来ることを提案すると、目を輝かせてお願いされた。だってしょうがないもん、なんかあってからではこっちが後悔するんだし、自宅からも歩いて五分の距離だしね。

 

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作業が終わってからはお茶をいただきながら昔話を一時間聞く。

警備会社の見守りシステムからは時折熱中症注意報、こまめに水分を摂ってくださいのアナウンスが大音量で鳴る。

あっというまに夏だ。

ちょうさん


ちょうど三年前の今頃。一ノ坂川に蛍が飛び交う季節に惜しまれつつも閉店した、自宅から最寄りにして最上の聖地、焼き鳥ちょうさん。
それから一年を経たずに熱心なファンからの期待に応えるべく、旧ちょうさんから川沿いを少し下った場所に返り咲いた店が居酒屋ちょうさんだ。
ほどなくして世間はコロナ禍に突入。元々ご年配の方々が集まる店であったこともあり、ここ一年以上顔を出していなかった。

先日店の前を通りがかった際に、玄関に貼られた貼り紙に目を疑った。
「ちょうさん閉店まであと5日」
これは行かねばと、昨晩時間制限ありで行ってきた。
七十三になったちょうさんもお母さんもご健在で一安心。二十年間ちょうさんを支えたお母さんにヤマアジサイをプレゼントしたら、大層喜んでもらえた。

ほどなくしてちょうさんから「いまから車椅子の奥さんとそのご主人が来られるから、席を寄ってくれ」と頼まれた。
快く席を空け、彼らの入店を待った。ちょうさんからの事前情報で、彼女は40代の時に脳梗塞で倒れ、右半身の麻痺と言葉に障害が残ったそうだ。それから長く塞ぎ込んでいたらしく、外食もままならなかったらしい。60代になって75歳のご主人が月に一度だけ飲みに行くのに付いて出掛けるようになり、表情が明るく一変したんだとか。その月に一度の店が、この居酒屋ちょうさんなのだ。

車椅子の彼女が狭い入り口から入店してきた時、脳裏に微かな記憶がよぎった。微か過ぎて定かでは無いが「この人知ってるかもしれない」的なやつ。
彼女はちょうさんのセルフ焼肉が好物らしく、にこにこしながら左手で肉を焼いては、十四も歳の離れた健常な亭主に「やけたよ、やけたよ」と食べさせていた。そのなんとも微笑ましい光景をアテに焼酎をあおりながら、ほんといい店だよなぁと。
途中、コンロの火が消えてしまい、忙しいちょうさんに変わって火をつけてあげた際、ぼくの右手の甲の悪戯書(刺青)を見てご主人が話掛けてきた。
「おれはずっと不動産屋でね。若い時廣島に居た時、そっちの筋のひとには随分お世話になったんだよ。お兄さんもその筋なの?」
いえいえ、ガキの頃の根性試しみたいなもんで、ただの悪戯書きですよと説明していると、すかさずちょうさんの横槍が入った。
「岩光さんはね、昔はそうだったかもしれないけどね、今は大工さんで活躍しておられるんです。大殿(この地域)生まれの大殿育ちでね、今も大殿に住われて」
するとご主人が
「へー!そうなんだ。この家内も昔は小学教師やっててね、大殿には11年も赴任してたんだよ」

その瞬間、記憶の断片が合致して全身に鳥肌が立った。
ぼく先生の教え子です!
一同目を見開いて騒然。彼女の方も記憶が甦ったみたいで「いわみつくん、わかる!」と喜んでおられた。「りっぱになったね、せんせいうれしい」と昔話に花が咲いた。

まさか最後のちょうさんで、こんなに運命的な再会があるなんてと、当事者のぼくたちより周りの客が感動。ちょうさんの奥さんはしまいには泣き出す始末。

こういうことがあるから居酒屋っていいんだよな。その一席、どの乾杯にもドラマがあるんだ。


国も県も市も、飲みに行かないでください、酒の提供しないでくださいって、なんの補償も無く無責任に垂れ流すばかりで、飲みに行くことが悪のような風潮になった御時世。自分もその風潮に合わせ、めっきり出なくなってしまった。
でも、だったら、飲食店の方たちはどうやって生きていけばいいんだろう。商売道具を奪われて、仕事を奪われ、工夫しようにもいろいろと限界がある。現にこうしてちょうさんも閉めざるを得なくなってしまった。
ぼくの愛するお店たちも、悲鳴を堪えながらもう一年も生殺し状態。
この素晴らしい居酒屋文化を絶対になくしてはならない。

山口市は新規事業者に補助金バンバン出しまくって、どこの馬の骨かも判らない、何年続くかも危うい業態の店がどんどん出来ているが、このコロナ禍を耐えぬいている、既存の「良い店」を守る事にも注力すべきだ。
ぼくが市長なら絶対にそうする。
絶対に市長にはなれないけど。

一体この先どんなことになんのか、誰にもわからない。

とにかくやることやって、とにかく前向いて、とにかくみんな健康でいよう。

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