7/9~10 第一章

6月初旬に浜田で植物説法をした晩の酒席でのことだった。いつもの三浦兄弟とめぐみ夫人、河野さんに加え、初めましての木工家、沖原さんと浜田で数少ない名店「磯」に集まった。僕の外見と中身のギャップに困惑した沖原さんの「岩光さんはなんでいまの岩光さんになったのか」という素朴な疑問に応えるべく、自分の生い立ちからの半生を話していた。その中で自分の転機ともいえるのが23歳の頃、大工になって3年目で、勤めていた工務店が伝統工法から新建材ベースの住宅へと転換し、燻っていた頃のことだ。

三年目の大工というのは、十年で一人前と言われる大工業界ではまだ修行の身。ただ、同じ年ごろの人達が一番遊んでいた年頃に、そんなことには目もくれず修行に打ち込んできた自負はあった。日当八千円の安月給で妻と長女を養わなければならなかったので当然と言えば当然だったが。

大工仕事は天職を得たと思っていたので、三年間で一通りの仕事はできるようになっていた。今思えば、兄弟子や棟梁からは生意気に映っていただろう。この頃には新築でも改修工事でもひとりでこなせるほどにはなっていた。しかし、このまま新建材ベースの格安ハウスメーカーのような仕事をいくらやり続けたところで修行にはならない。なにより「この材料を切るときは必ず窓を開け、防塵マスクとメガネを着用して作業を行ってください!」こんな注意書きが赤で大大と書かれた建材を使って家を建てることに心底嫌気がさしていた。世の中の需要は見た目が良く機能的で高気密高断熱みたいなのが主流なのかもしれないが、体や目に触れる部分はなるべく自然のもので、「普通の家」が作りたかった。ただ、こんな田舎の山口では昔気質の工務店かHMかの二択くらいしかなく、悶々とした日々が続いた。

ある日実家で過ごしているときに一冊の雑誌を手にした。住む。という雑誌だ。その号はその後もたくさんの御縁を繋ぐものとなった。いまでも手元に残っているが、2003年に発行されたものだ。ちょうど二十年前のことだった。

その号の中で中村好文という建築家の実例と文章が掲載されていた。「雷に打たれたような」ではなく、沸々と、とても静かな衝動が沸き起こったのを今もよく覚えている。巻末には「簡素で身の丈に合った、普通の家がいい」とあった。この時既に、欲しいものを手にした気分だった。住まい手と作り手が住まいの本質を見極め、簡素な豊かさをともに作っていく。これこそが自分のやりたい仕事だと確信した。父にこの雑誌を何冊か貸してほしいと聞くと、「おー、もう全部読んでるし、みんな持ってっていいぞ」と言ってくれた。父の表情は心なしか、やっと気づいたかみたいな、目を細めるような顔をしていた気がする。その翌年の元旦、wccworksを立ち上げた。二十四歳の時だった。

最初の頃は当然随分と苦労した。この時には次女も産まれていたので、先輩大工や上棟の応援で日銭を稼ぎながら、名前を知ってもらうようなチラシを作ってみたり、とにかく何でもやった。駅通りのセレクトショップBRAT'S STOREの店舗改装の仕事は初めてデザインから施工までの全てを担当した案件で、何の実績もない自分を選んでくれたオーナーには本当に感謝している。その後、陶の家具店LOOLのはじまりの窓を施工、その窓を見た人の家、はじまりの家の設計施工をすることになる。

はじまりの家を設計するにあたり、自分の仕事の手本としてきたのが中村好文さんの住宅だ。彼の作例やそこに添えられた文章は何度も何度も読み返してきた。それ以降十数軒建ててきた住宅、改修事例、店舗に至るまで、自分の仕事には彼の影響が濃い。

前置きが大変長くなったが、磯では環日本海という日本酒を酌み交わしながらこんな話をしていた訳だ。すると三浦家の兄、ひろきさんが「来月大磯の知人が中村さんの講演会をするんですよ、ぼくも行こうと思ってるんだけど良かったら一緒に行きます?」と言い出した。酒が進んでいたのもあって、なんだかよくわからないけどまず大磯ってどこ?あー、あの大磯砂の!うちの住宅の玄関土間の洗い出しは全部大磯の三分砂をつかってるんですよー。鎌倉の下の方?で、そこで中村さんの講演会?そのあとはビール飲みながら懇親会?? え、、行きたい。。僕にとっては憧れ続けた人なので、それはもう何を犠牲にしてでも行かなくてはということで、この旅の記録をここに綴っておこうと思う。                       第一章 おわり